『大誘拐』 [読書]
こちらも読み返し。
出会いは、1991年に製作された映画のテレビ放映。
その後も何度か再放送され、そのたびに必ず見ていました。
しばらくして原作小説があることを知り、読んでみると、原作を忠実に映像化していることが
わかってなんだかとてもうれしくなったものです。
原作は週刊文春ミステリーベスト10で20世紀国内部門第一位になっていたんですね。
ミステリーというよりはコメディ色の強い作品ですが、作者は推理小説家ですし、
エンターテイメントとしては間違いなく、私の中でも一位です。
物語は日本一のお金持ちのおばあちゃんが、
刑務所帰りの3人の若者に誘拐されることから始まります。
身代金は当初の予定では五千万円。
ところが人質のはずのおばあちゃん「私はそない安うはないわ」「百億や」
この「百億や」とおばあちゃんが言い切る場面。
活字で読んでいても、映画で北林 谷栄さんが演じているシーンが思い浮かびます。
鳥肌が立つほどわくわくする瞬間です。
大抵の映画化作品は原作を先に読むようにしているのですが、
この映画についてだけは先に映像を見ていて本当に良かったなと、思います。
どの役者さんも絶対この人だ、といえる絶妙な配役です。
なにより北林 谷栄さん、主役のおばあちゃんはこの人をおいて他にはないでしょう。
最近は年齢を感じさせないきれいな女優さんはたくさんいるけれど、
北林さんのように年齢との違和感がなくて、でも素敵な歳の重ね方をされている女優さんは
あまりいらっしゃらないような気がします。
私の中では北林 谷栄さんと、『八月の狂詩曲』の村瀬 幸子さんが、
理想のおばあちゃん同率首位です。こんなおばあちゃんになりたい。
また映画が見たくなってしまいました。
最近はさすがに放映しなくなりましたので、DVDを買ってしまおうかな。
『オレンジの壺』 [読書]
久しぶりにちゃんと読み返してみた。ななめ読みでなく読破したのは、おそらく10年ほど前にはじめて読んだ時以来。
高校時代に友人が『ドナウの旅人』を気に入って、薦めてくれたのに読んでいなかったことを思い出したのは、確か就職して少し経った頃。読了後に、大学からの別の友人に感想を洩らしたところ、なら『オレンジの壺』も読んでみたらと貸してくれたのが出会い。
『ドナウの旅人』の感想は、「高校生の時に読まなくて良かった。」
思春期の私が読んでいたなら、きっと読後のもやもやに耐えられず、二度とこの作者の本に手を出さなかっただろうな、と思った。10年前の私は『ドナウの旅人』について、「まあ、わからなくはない。」と思えるほどにはなっていたから『オレンジの壺』も読んでみた。
感想は、『ドナウの旅人』以上にもやもやを抱え、でもそのもやもやを消化できない私はまだ大人ではないのだなぁと、変に納得した。もやもやの大部分は物語の謎に対する主人公の回答が、物足りないからなのだけれど、それを除いたとしても主人公に共感できなかった。でも主人公に共感できなくても、小説そのものを理解することができれば、もう少し大人になれるかなと思ったのだ。
前回は主人公よりも若かったけれど、今回は結構年上になっている。さて、感想は…
やっぱりまだまだかなぁ。
友人に本を返した後、わざわざ自分用に買ったのは、こうやって何年かおきに読み返して、過去の自分を思い出すためだったのかと、思ったりもする。
『ドナウの旅人』ももう一度読んでみようかな。でもあの本はもう手放しているし、何より長いんだよな。。。
この小説家の大ファンというわけではなく、どちらかというと苦手意識があったりするけれど、『オレンジの壺』はこの先も手放さないだろうな。
仕事 [お仕事]
今後はフリーで働くことになるけれど、収入が激減することは避けられません。
それを許してくれた家族に感謝すると同時に、頑張らなければなりません。
ずっと事務職で働いていた私のモットーは、「事務職は社内サービス業」。営業事務であれば、お客は顧客と自社の営業さん。一般事務なら所属部署の方がお客だと考えていました。そして「事務職は売上を持って、会社に貢献していない。」ことから、売上に貢献している人を支えることが仕事だと思ってきました。だから、営業さんや上司から少々理不尽なことをお願いされても頑張れました。
最終的に会社を辞めたのはそれを評価してもらえなくなったから。逆に言うと、それまではどの会社でもこの部分だけは評価されている自信がありました。恵まれていたのですね。
これからは自分で売上を上げることになるので、頑張らなければ無収入。
とりあえず、税金・保険を自分で払えるくらいの利益は確保したいものです。
本を手に取る条件 [読書]
それでも年に一、二冊だけ買ってしまうことがある。好きな作家の新作がつい目に留まって気になってしまったり、立ち読みしてどうしても続きが気になってしまったり、「これはなかなか文庫にならないかも、でも読みたい」と思ったりしたときなどである。
もう一つハードカバーに手をのばしてしまう条件がある。装丁が美しい本。
もちろん本文も斜め読みで確かめるし、内容が気に入らなければ買わないけれど、たとえばいつもなら文庫が出るのを待つであろう本がそれなら、買ってしまう。それは綺麗な本を本棚に並べたい欲求と、美しい装丁を生み出した本文に対する魅力を感じるから。
そんな買い方をした本は、今までにも二、三回しかないけれど。そんな出会いを求めて、時々はハードカバーの平積みを眺めていたりする。
学校 [独り言]
今はそれぞれ違う場所にいて、今までの時間をそれぞれに過ごしている。
違う時間を過ごしたことで、きっと同じ時間を過ごしていたことの意味が
それぞれに変わって行ってしまうことが、少し切なくなったりもする。
同じ時間を過ごしていたことは
きっと同じ空気の中に居たということだけで、
何の意味も最初からなかったのかもしれないけれど。
でも、あの時、あの場所にいた彼らが
そこでいろんなことを考えて生きていたってことを憶えていることは
私には意味があるんじゃないかなって思う。
毎日それを思い出すわけではないけれど、
きっかけを与えられると思い出すのは、私にとってそれが大切なことだから。
それを誰かと共有している必要はないし、
共感して欲しいわけでもないけれど、
一言。「よかったね。」と言ってくれる人がいればうれしい。
その人が過去に同じ場所に居た人でなくてもいい。
これから先に、時々同じ場所に居てくれる人ならいいと思う。
大好きな人のために [思い出]
すべての人を好きになれるほど、私の心は広くないから。
私のことを嫌いな人だってたくさんいるだろうけど。
私も嫌いな人、苦手な人がけっこういるけど。
その人のことを好きな人がいたら、
その人の好きなところを見つけてくれる人がいたら、
少しだけ見る目が変わるかもしれない。
好きにはなれなくても、ちょっと見直したりできるかもしれない。
私が大好きな人はできるだけたくさんの人に好かれてほしい。
だから私はあの人の好きなところをたくさん、たくさん見つけようと思うのです。
誘導 [思うこと]
Aという事象についてある人が「申し訳ない」と謝りました。
それがなぜか、Bという事象について謝ったかのように報道されたことがありました。
私は偶然、この件についての報道が偏向していることに気づきました。
けれど当然ながらすべての報道の事情を知っているわけではないので
気づかないままテレビ、新聞をながめていることのほうが多いのです。
すべてがそうではないと思いたいけれど、
自分で考えることを怠っていると、誰か知らない人の考えにすり替わっていることに
気づかなくなってしまうかもしれない。
道に喩える人生 [思うこと]
人生が道に喩えられるようになったのは一体いつからなのか、
最初に喩えたのは誰なのだろう。
なるほど人はいつも何かしら選び進み生きていく。
それはいくつも交差する道を進んでいく様によく似ている。
けれど、実際に歩く道には目的がある。
いや、目的地に向かって歩いていく。
人生は目的が見えない。目標はあるかもしれないけれど、
それが目的なのか、果たしてそれに向かっているのかわからない。
だけど、歩くたびに何かが残る。
花が咲くか、実が実るか、葉のみが茂っているのかはわからない。
足跡だけが残っている時もあるだろう。
もうきっと会うこともない人々とはきっと交差点ですれ違っただけ。
いまでもかけがえのない友人は時折、風に乗せて種を届けてくれる。
同じ道を歩く人はきっといない、けれどその人の道に咲く花をいつも見ることができるなら
それでいいのだと思う。
私の道に咲く花をその人も時折見つめてくれればそれでいいのだと思う。
一本道を歩いているのではないとわかるだけで。
はじめて死を恐れたとき [思い出]
母方の祖父が逝ったは私が2歳の時、何も憶えていない。
父方の祖父は4歳の時、焼き場で最後の顔を見たことだけは憶えている。
だけど、悲しみは思い出せない。「死」が何かわかっていなかったからだと思う。
その人に会ったのは一度だけ、父方の祖母家で。
祖母の実家の親戚の人と後にきいた気がする。
確か私は5歳か6歳かでどんな会話を交わしたのかまったく憶えていない。
しばらくして、真っ白なワンピースが届いた。
一度だけ会った私の見た目だけで作られたその服は
私の体には合わず、母がスカートに直してかろうじて着ることができた。
私はワンピースのままで着たかったから、とても残念だった。
それからしばらくして、祖母の家で一人留守番をしていた時に、黒電話がなった。
祖母がいないことを知った電話の主は「ワンピースのお姉さん」のお母さんで
「○○が死んだってつたえてくれる?」とふるえる声で言った。
ワンピースのお姉さんは難しい病気で、死が迫っていることはわかっていたらしい。
本人が知っていたかどうかは私は知らない。
病弱ながら趣味の洋裁が大好きで、いつも何かを作っていたそうだ。
「死んだ」ということばに私はただただショックを受けた。
悲しいわけでも、辛いわけでもなかった。
ただ「死んだ」ということばの音がずっと私の中で反復していた。
それが私がはじめて「死」を恐れた瞬間だったのかもしれない。
「死」が何かはきっと今もわかっていない。
ワンピースのお姉さんに「ありがとう」といえないままだったことを
なぜか今日ふと思い出した。
あのワンピースだった真っ白なスカートはまだ実家に残っているだろうか。
重ねた年 [日々のこと]
20代も後半に入って、世間的には結構いい歳になっているけれど、
自分がそんな歳だということがまだまだしっくりしない。
時々は大人ぶって、話してみたり
先輩ぶって、仕事をしたりしているけれど。
そんな自分はどこか私ではない気がする。
いつまでもこども気分でいられないし、いたいわけでもないけれど。
私はいつ重ねた年にふさわしい歳になれるのかしら。
私が私であること [大切なことば]
「それがなくなったら”君”じゃなくなるのかもしれないけどな。」
いろいろなことに悩み、自分がたくさん悩みを抱えているということすら
悩みにしてしまっていた私にある人が言ってくれたことです。
”君”のところは私のフルネームでした。
恋人だったわけでも好きな人だったわけでもありませんが、
そのときの私を真剣に心配してくれていた人のうちの一人でした。
私が考えていることは他の人から見ればささいなことだったり、
私が悩む必要はまったくなかったりすることが多い。
そんなささいなことまで考え込んでしまうことは、けしていいことではないけど、
でもそういう部分も含めて”私”なのだから、
私が”私”であることまで悩む必要はないのだと。
もう何年も前のことだけど、
私が今でも時々記憶のなかから取り出す大切なことばの一つです。
完璧から逃げる方法 [思うこと]
完璧な人間なんて存在しないと思っているし、
完璧な人間になりたいと思ったことなど、今までに一度としてない。
そして私は完璧な人間になる必要などないのだと私自身はわかっているのに。
完璧な人間であることを求められたら、ただ苦しいだけになる。
そんな居場所にいる私に、
逃げていいんだって言ってくれてありがとう。
そういってくれる人がいてくれただけで、
私は生きててよかったって涙が流せる。
泣かないでって言われるし、私が泣いたら余計に心配させてしまうこともわかっているけど。
うれしくて出る涙は止まることはないのです。
年賀状 [思うこと]
年賀状、毎年ぎりぎりに書きます。
ネットやメールが便利になって、
それまではほとんど連絡を取れなかった人とも連絡の取りやすくなったのかもしれない。
でも、そういったツールを必要以上に使わない私が
それを使いこなす人たちのなかで薄れていってしまうのは仕方のないことなのかもしれない。
だけど、何年も会っていなくても必ず年賀状だけは送ってくれる人もまだいるのです。
そういう人たちには必ず年賀状を出したいから
毎年「今年もくれるよね?」と語りかけながら一枚一枚を書きます。
でも送った年賀状に返事さえくれない人も必ずいて、少しずつ増えていく。
それを恨めしく思いたくないから、さみしいと感じることが辛いから、
次の年には送らない。
もちろん、新たに送る人もいるから、結局は毎年同じくらいの枚数を書くのだし、
同じくらいの枚数を受け取るのだけれど。
だけど、あなたの字を一年に一度でいいから、
目にしたいと、私は待っている。
何かを失ったときに [思うこと]
失って後悔したことはたくさんあったし、
きっとこれからもたくさんある。
失うことは哀しくて苦しいこともあるし、
ムダなことはわかっていても後悔してしまう。
だけどそうなったときの自分について後悔はしない。
私はそんなに大切なものを確かに持っていたのだから。
それを手に入れられる自分は確かにいたのだから。
そして今はまたちがう何かに囲まれているはずなのだから。
神様と私の試練 [思うこと]
神様はその人が耐えられる試練しか与えない。
だから今ある試練は必ずのりこえられるものなのです、と。
今の私にはおそらく試練といえるほどのものはなく、
私はまだ神様を信じられるようにならないけれど。
もしも苦しくて辛くてたまらないときがこの先やってきたら、
神様、信じてもいいですか?
ありがとう [思うこと]
ありがとう、と言われるほうが
すみません、と言われるよりもずっと嬉しいから
ありがとう、と言うようにしたいけれど、いつもすぐ出てきてしまう
「すみません」
ありがとうが、私のなかに有難いから?
時間と空間と私の居場所 [思うこと]
耳に届くこと、目に映るもの、すべてほんの僅かな時差があって
私の脳に認識されるのだとか。
どんなに一緒にいても、近くにいても、
同じ時間を過ごしたことにはならないのかしら?
そんなことにはならないように、
いつも手をつないでいてほしい。
ほしいもの [思うこと]
私がほしがっているものは
ほしいといって手に入るものだけではないから。
別にそれは必要ないのだと、自分にいいきかせているときがある。
でもあきらめてしまったら、きっと一生手に入らないと思うから、
もう少し、頑張ってみようかと思う。
花火 [思うこと]
花火は、満開に咲いた瞬間よりもその後、
しずくが落ちるように揺らいだ瞬間のほうが美しいと思う。
完全なものが壊れようとするとき、もう少しだけ待って、と切なくなる気持ち
がそうさせるのでしょうか。
それは満開のさくらが風に散る様を美しいと感じるときも同じで、
美しさに心洗われるようでありながら同時に、
耐え難いほどのさみしさを感じる瞬間でもあるのです。
遠距離恋愛 [思い出]
「遠距離になるなら別れる」と言われたことがあります。
結果として遠距離になることはなく、別れることもなかったのですが
そのときは、「ひどい!」と憤慨したものです。
遠距離恋愛は向いてる人と向いていない人がいると思います。
相手のことをある程度ほおっておくことができる人、
ある程度ほおっておかれても大丈夫な人同士で、
でも、たまに会ったときにちゃんとお互いの大切さを確認できる人たちが「向いている人」。
「向いている人」が上手くいくかどうかは、また別問題だとは思いますけど、
向いていない人にとってはさらにハードルが高い。
私と彼は明らかに向いていない人たちなので、
「遠距離になるなら別れる」はある意味正しい方法だったのかもしれません。
でも、私としては「だから遠距離にならないようにしてほしい。」という気持ちがあったのだと
信じたいのですけれど。